シネマ・エンター 忘れないよ名作映画 第1回 「デルス・ウザーラ」②
監督の黒澤明さんは生涯30本の作品を作りました。この作品は25本目の作品となります。
黒澤さんは24本目の作品「赤ひげ」まで三船敏郎さんや志村喬さんらと共に、「七人の侍」や「生きる」「用心棒」など数々の名作を手掛けてきました。そして「赤ひげ」で長年コンビを組んできた三船敏郎さんと「やりたい事はやり尽くした」とコンビを解消しました。
その後、自ら書いた脚本「暴走機関車」をハリウッドで映画化する話しがありましたが、脚本の面で意見が対立し監督を降りました。そして再びハリウッドから「トラ・トラ・トラ」の日本版監督の話しが舞い込み、かなり意気込んで脚本や絵コンテに取りかかり製作を進めますが、映画撮影の方法や意見の対立などハリウッド側と折り合わず降板してしまいます。
そして日本での邦画低迷を打開すべく市川崑らと立ち上げた《四騎の会》の第一回作品として「どですかでん」を製作しますが、興行が振るわず黒澤明監督はこの後なかなか思うように映画が撮れず自殺未遂をしてしまうのです。
自殺未遂から復帰した後、ソ連から映画製作の依頼があり、製作に関してかなり制約があるものの黒澤さんの芸術的意見を尊重するという事で、黒澤さんはソ連に渡ってこの「デルス・ウザーラ」をついに完成させたのです。
黒澤さんのこんな言葉があります。
「映画という、同じ世界で仕事している人間たちの間に言語の壁が障害になるとは思わない。」
「カラヤン(世界的指揮者)はタクト(指揮棒)一本で世界中の人々に自分の音楽を理解させ、画家は絵筆1つで世界中の人に自分の考えを伝える。自分にキャメラとフィルムを渡してくれれば、僕は世界中の人に理解してもらえる映画を創れると確信している。」